「プロ奢ラレヤーの生む感情」
「人に迷惑をかけるな」という言葉が可能性を殺しているような気がする。
迷惑はかけようと思ってかけちゃいけないのかもしれない、
でも、迷惑は承知だけどやりたいんだ。
と、思ってやるなら許してやって欲しいと思う今日この頃。
数日前、プロ奢ラレヤーさんという存在を知った。
衣食住をすべて他人に奢ってもらうという職業。と、いうよりもはや生き方だ。
たぶん賛否両論あるのだろうけど、私は面白いと思った。
彼の生き方はまさに他力本願。
他人の時間やお金をいただいて生活するという今話題の多動力をフルに活かした
生き方。
人の時間やお金をいただくことに拒否反応を起こす人もいるだろうけど、
その反応は彼が誰かに強要したり、脅したり、騙したときにだけ持てばいいと思う。
少なくとも、奢ったり、お金を寄付している人たちはたのしんでいるようだし、
自分の経験からしても寄付をすると、とても気持ちがいいものだ。
最近の若い者は!と言ってしまう人がいると仮定して話すと、
そもそも、昔は田舎にはそんな人がたくさんいた。
働かないからお金がない。それをみんなが知っているから
「これ持ってけ」
「今日は食べてけ」
「調子悪い?病院連れってやる」
と、周りが世話を焼いてあげる。わたしの父も地元で有名な奢ラレヤーのおじいさんを車で送ってあげてた。そりゃ、おじいさんを嫌いな人もいたけど、わたしは
おじいさんの世話を焼く父が好きだった。
だけど、最近はそんな奢ラレヤーをみかけることはなくなった。
その話を昔父と話したとき、今は周りがそれを許さないんだと言っていた。
みんな、自分が苦労して働いているから楽して暮らしている人間を許せないんだという。
なぜみんなが同じ生き方をしなくてはいけない?
同じじゃないことは罪か?
実に不思議。
似た話だと思ったのが、姑が息子の嫁をいびる構図。
自分も苦労したから、あなたも苦労しなさいよ。といって
自分自体を嫁の苦労の塊にしてしまうんだ。
楽しいのかそれは?と思ってしまう。
奢ラレヤーの生き方をどう感じるか。
その感情の正体が自分自身の人間性なのではないか?なんて思った。
ちなみに、わたしの選択は
「自分も奢られてみよう!」だった。SNSでプレゼントを募集したところ
欲しかった本2冊と、除湿器、フライパンが2日間で寄付された。
これで世の中が割と温かいことが分かった。お返しだけど
わたしの場合はプロじゃないからそんなに影響力がないので
その恩をくれた個人に返すようになると思う。
でも、プロ奢ラレヤーさんは生き方自体が人生の多様化を提示していると思うので
その姿勢で自分が飽きるまで、または閃きのまま生きていることが恩返しとなるのだろうと思う。
人に迷惑をかけるなという言葉は、迷惑をかけられる側の気持ちを知るまでわからないものだ。同じことをしても迷惑と感じる人と、人助けと感じる人がいるのだから、
それにむしろ助けさせてという人もいるわけだしね。
これからきっと色んなプロが生まれてくる。
ポン酢のプロや、アイス評論家のアイスマン福留さん。
けん玉師がいることを知ったとき、衝撃だったけど今は普通だ。
人との違いを簡単に批判するのではなく、むしろ面白がる方を選択したい。
それと、醜い姑にはなりたくない。