これがダメなら

これがだめでも、あっちがあるさ。

「スナックという絆」

キングコング西野さんが、最近しきりにスナックのことについて語っている。

スナック未経験者のわたしにとってスナックとは

 

・少し高めのお金を払ってカラオケをする場所。

・常連しか入れない場所

・おじさんが行く場所

 

というイメージで、西野さんのいう「スナック最強説」はピンとこなかった。

「コミュニケーション力が高い人が行く場所」というイメージが強くて、人見知りのわたしには向かないなぁとすら思っていた。

 

しかし、一昨日訪れた焼き鳥やさんでそのイメージは完全に払拭された。

家族で訪れたその店はこじんまりとしていて、入るとそこらかしこに煙と油のにおいが染みついていた。神経質な人は食欲を損ねてしまうような店。けれど、そんな雰囲気がたまらいんだ!という人にはハマる。そんな昔ながらの雰囲気がする店だった。

 

焼き鳥やを営んでいるのは高齢のおじさんで、一人で店をやっていた。

入店10分で店主がおっちょこちょいなこと、そして耳がすこぶる遠いことがわかる。

まず、注文をするのが大変。大きな声というより、叫ぶに近い声で注文しても店主には伝わらない。さらに、5分に一回くらい物を落とす。

なにより特徴的なのが独り言が大きいこと。

「あちゃぁ、焼き過ぎた。こらアカン」

っと、どんなミスをしたのかまでわかるほどだ。

 

注文を通すだけでも大変なこの店は、効率的という言葉と対局にあると言える。

注文一つ通すにも少々の勇気とストレスを要する。

にもかかわらず、店の中は人でいっぱいだった。

 

注文はスムーズに通らない、5分に一回ガシャンと音がする。

しょっちゅう焦がしてるからなかなか品がこない。

それなのに、人が集まるそのわけは一つだった。

 

客が店を回していたのだ。

耳の遠い店主の代わりに注文を取るお客さん。

一人で手の回らない店主の代わりに焼き鳥を運んであげるお客さん。

店主の代わりにトイレの場所を教えてあげるお客さん。

みんなが一体となって店主を支えていた。

 

3回目のガッシャンが聞こえた時、ウチの8歳の娘が

「だいじょうぶですかぁ?」と店主を気遣った。

でも、その声は店主の耳には届かない。

すると、

 

 

「優しいねー」

「だいじょうぶだよー」

と、周りのお客さんが店主の代返をしてくれた。

 

 

この空間に不快感を抱く人がいるだろうか?

少し不便で、少しメンドクサイこの店は

わたしがよく行くカフェよりも居心地がよく、温かかった。

1本しか頼んでないレバーの串焼きが帰り際に4本きてしまい、

完食は無理っぽいと感じながらも、文句も言わず残さず食べた。

普段ならきっと残してしまうだろうけど、たぶん店主が落ち込むかもと思うと

残せなかった。それに、、、

みんなが作ったこの温かな空間を壊したくなかった。

視界に入るちょっとイカツイお兄さんたちが優しく見えたし、

少し隠れるように座った訳ありカップルに変な想像力も持ちたくない。

赤の他人同士が無意識に作る温かな空間は壊してはいけない神聖な場所に思えた。

 

飲食店にこんな感情を抱いたのは初めてだったけど、

スナックはきっとこんな感じなんだろうと本能的に直観した。

確かに、これは最強だ。

店にいるみんながこの温かな雰囲気を壊したくないと思っているし、

むしろ、力になりたいとすら思っただろう。

個人の損得を超えて、気持ちのいい時間を作る歯車に自ら進んでなろうとする。

まるで魔法にかかったみたいだった。

店主は客を使ってやろうという気は毛頭なかった。

申し訳ないと思っているからすべて自分でやろうとする。

その結果空回りしてミスをするという店主のルーティーンをみんなで阻止した。

店主は客に感謝をしている。ぶっきらぼうな「ありがとう」に客はもっと支えようとする。支えて、支えられる関係を作る場所、それがきっとスナックなんだろう。

 

 

 

「プロ奢ラレヤーの生む感情」

「人に迷惑をかけるな」という言葉が可能性を殺しているような気がする。

迷惑はかけようと思ってかけちゃいけないのかもしれない、

でも、迷惑は承知だけどやりたいんだ。

と、思ってやるなら許してやって欲しいと思う今日この頃。

 

数日前、プロ奢ラレヤーさんという存在を知った。

衣食住をすべて他人に奢ってもらうという職業。と、いうよりもはや生き方だ。

たぶん賛否両論あるのだろうけど、私は面白いと思った。

彼の生き方はまさに他力本願。

他人の時間やお金をいただいて生活するという今話題の多動力をフルに活かした

生き方。

 

人の時間やお金をいただくことに拒否反応を起こす人もいるだろうけど、

その反応は彼が誰かに強要したり、脅したり、騙したときにだけ持てばいいと思う。

少なくとも、奢ったり、お金を寄付している人たちはたのしんでいるようだし、

自分の経験からしても寄付をすると、とても気持ちがいいものだ。

 

最近の若い者は!と言ってしまう人がいると仮定して話すと、

そもそも、昔は田舎にはそんな人がたくさんいた。

働かないからお金がない。それをみんなが知っているから

「これ持ってけ」

「今日は食べてけ」

「調子悪い?病院連れってやる」

と、周りが世話を焼いてあげる。わたしの父も地元で有名な奢ラレヤーのおじいさんを車で送ってあげてた。そりゃ、おじいさんを嫌いな人もいたけど、わたしは

おじいさんの世話を焼く父が好きだった。

 

だけど、最近はそんな奢ラレヤーをみかけることはなくなった。

その話を昔父と話したとき、今は周りがそれを許さないんだと言っていた。

みんな、自分が苦労して働いているから楽して暮らしている人間を許せないんだという。

 

なぜみんなが同じ生き方をしなくてはいけない?

同じじゃないことは罪か?

実に不思議。

 

似た話だと思ったのが、姑が息子の嫁をいびる構図。

自分も苦労したから、あなたも苦労しなさいよ。といって

自分自体を嫁の苦労の塊にしてしまうんだ。

楽しいのかそれは?と思ってしまう。

 

奢ラレヤーの生き方をどう感じるか。

その感情の正体が自分自身の人間性なのではないか?なんて思った。

 

ちなみに、わたしの選択は

「自分も奢られてみよう!」だった。SNSでプレゼントを募集したところ

欲しかった本2冊と、除湿器、フライパンが2日間で寄付された。

 

これで世の中が割と温かいことが分かった。お返しだけど

わたしの場合はプロじゃないからそんなに影響力がないので

その恩をくれた個人に返すようになると思う。

でも、プロ奢ラレヤーさんは生き方自体が人生の多様化を提示していると思うので

その姿勢で自分が飽きるまで、または閃きのまま生きていることが恩返しとなるのだろうと思う。

 

人に迷惑をかけるなという言葉は、迷惑をかけられる側の気持ちを知るまでわからないものだ。同じことをしても迷惑と感じる人と、人助けと感じる人がいるのだから、

それにむしろ助けさせてという人もいるわけだしね。

 

これからきっと色んなプロが生まれてくる。

ポン酢のプロや、アイス評論家のアイスマン福留さん。

けん玉師がいることを知ったとき、衝撃だったけど今は普通だ。

 

人との違いを簡単に批判するのではなく、むしろ面白がる方を選択したい。

それと、醜い姑にはなりたくない。